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2014年7月12日 (土)

新撰組の永倉新八の菩提寺である量徳寺の碑と資料室、そして国道沿いの対面の地の立て看板

幕末の武士、新撰組の副長助勤 永倉新八は、晩年を小樽で過ごし、そして小樽で亡くなっているんですよね。

菩提寺である、入船町の量徳寺には、

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旧新撰組 副長助勤 永倉新八 菩提寺」と書かれた碑が建ってます。

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(量徳寺の建物前の左側に碑があります)
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この量徳寺の建物に入ってすぐ右には、永倉新八のミニ資料館もあります。

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Otaru_20140712144102

受付で声をかけたら、“どうぞご自由に”とのことでしたよ。

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さて、ファンが多そうな新撰組なので、詳しい方も多そうですが、個人的にはあまりよく知らないのでちょっと調べてみました。

ということで、ここはちょっとWikipediaにて、

永倉 新八(ながくら しんぱち、天保10年4月11日(1839年5月23日) - 大正4年(1915年)1月5日)は、幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。旧姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。
松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。
永倉新八 - Wikipedia

ということで、小樽にいた頃は、杉村義衛の名前だったのですね。
その点については、

明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。杉村義衛と名乗った。
永倉新八 - Wikipedia

さらに、

明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。その後は北海道小樽へ移る。警察官僚・月形潔の招きで、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導する[2]。退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。明治32年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。明治42年(1909年)7月、小樽市花園町に住む。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。
永倉新八 - Wikipedia

そして、大正4年(1915年)1月5日に小樽で死去。享年77歳とのことです。

ちなみに、花園町の小樽市役所の左横が、住居跡地となるそうですが、今回はよく分かりませんでした。
ただ、市役所前の道路を真っすぐ国道5号線まで出て、すぐ左に曲がった国道沿い(地下歩道のある場所)には、何やら立て看板があります。

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Otaru_20140626145124

大正二年五月廿二日
新撰組 永倉新八を訪ね
自称・近藤勇の娘
山田音羽(芸名 綱枝大夫)
対面の地
現、小樽市役所左隣り

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との内容ですね。

ということで、以上、新撰組の永倉新八についてでしたが、小樽ゆかりとなると、ちょっと知っておきたいですよね。


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コメント

小樽の歴史的遺物が観光客の目玉商品化されているが、歴史的エピソードを確認して、その足跡を感じて見て歩くと、各場所の価値観が変わり、感動する場所もある。外国人の観光客には無理だが、日本人のリピーターには良いと思われる。埋もれて忘却されている歴史的事実が多く、亡くなってしまった古老から聞いていた子孫が誰かにボソッと語って、初めて周りが気が付いて関心事になる場合が多く、その子孫達の歴史的な重要性に関心が薄い場合は、永遠に御蔵入りになってしまいますね!!永倉の身近な出来事を色々詳しく知っていた近所の古老の子孫達が噂話として、語り継がれた事を知っている若い者が居なくなっているのが残念ですね!?金儲けにならない歴史的噂話よりも、現実的な中国人観光客の価値観が大事なのです。寿司や硝子…。松田ビルの中を見ると、米軍占領軍時代のGHQ本部の雰囲気を感じるし、一階の喫茶店のランチや珈琲も良いですね。四階の工藤コーポレーションの中を見るとミリタリーショップの様で面白い。北海道紙商事のビルが、日本陸軍憲兵隊小樽支部があった場所でビシビシと取り調べをされていた事がある様だ。埋もれたエピソードを発掘して改めて見物すると、感動的になる。小樽の人が知らない事がまだまだ沢山あるのだから、他の地域の人が知らずに驚くのは当たり前だが、歴史的事実を実証する物が少ないので、NHKの歴史ドラマの内容を変更する迄には到らない…。しかも有名大学教授のお墨付きが無いと認知されないだろうが、歴史的に語り継がれた庶民的噂話も重要な情報ではないかとも思えますね。永倉の仕込みヅエを貰った土方歳三老人(渡邊仁左衛門)の話を色々詳しく知っている花火職人佐々木さんや西澤外科の先生は面白かったですね!?函館の土方は影武者で五稜郭に遺体が埋めてあり、昭和初期か大正の頃の工事中に、骸骨がまとめて当時の服装で発見されていたが、その中に土方の影武者の遺体もあった様ですね。本物は老人として大正時代に小樽で亡くなっていた事が真実で。老人の写真が一枚だけ残って居たようですが、行方不明なので立証出来ないと言ってましたね。西郷隆盛の写真が別人だったと言う噂話と共に、土方歳三の写真も別人だったと言う噂話がある。坂本龍馬の写真も別人の噂話がある。永倉、榎本、土方の秘密の野望と友情関係が明治の頃に、小樽を中心に色々あった様ですね!?刀や鉄砲ではわからないが文書は、意識的に残さないので言葉の記憶しかない。新撰組の敵は多数だからね!!何時も刺客に注意していたらしい。当時から武器の携帯は違法の様ですが、榎本のバックは強くて、商売人としても上手くいっていたみたいですね!?

投稿: | 2014年7月13日 (日) 07時41分

おはようございます。
実は先日小樽から帰って来ました。
量徳寺も行ったのですが、残念ながら日曜のためか入れませんでした。
永倉新八の資料室を見たかったのに、本当に残念。
碑にも気づきませんでした。(汗)
この記事、もうちょっと早く出していただければ良かったのに(笑)
ちなみに私は、昔あった量徳幼稚園の卒園生なんですよ。

投稿: はは | 2014年7月13日 (日) 08時51分

「新撰組」大ファンとしてとても嬉しい記事。「京都壬生.東京日野市.千葉流山市.函館.小樽」他新撰組ファンには必ず訪れたい、イヤ訪れる場所です。晩年の永倉新八が水天宮の高台で竹刀をふる光景を何度心に重ねたか。「量徳寺」では大分以前ですが、富山から来た新撰組ファンの方とお会いした事があります。永倉新八が最晩年に新聞社の取材に応じた事により悪役とされてた新撰組の評価が劇的に変わったそうです。実は今日国5量徳寺前で左折し天神町へ。以前潮見台地下道の記事で「セブンイレブン…云々」とコメントしましたが既に閉店で「潮見台歯科」に変わってました。資料館もう一度行こうかなあ(笑)16日帰京です。

投稿: T75 | 2014年7月13日 (日) 20時39分

すみません!?潮見台が頭にあり「龍徳寺」と「量徳寺」がごっちゃに。正しくは「龍徳寺前左折」。明日小樽祭り見学して「量徳寺」行ってみます。明日は歩き!!

投稿: T75 | 2014年7月13日 (日) 20時49分

量徳寺は実家の菩提寺なので6月帰樽の際にはお参りに行って来ました。
永倉新八の碑には気が付きましたが資料館には気が付きませんでした(。>0<。) 次回は覗いてみますね。
受付の方はとても穏やかで親切な方でした。

投稿: EKO | 2014年7月13日 (日) 23時46分

名無しさん、こんんちは。
小樽にいても、知らないことがまだまだあります。
永倉新八にまつわるエピソードも、本当はまだまだたくさんあったのでしょうね。
語り継がれず、忘れられていく歴史的出来事があるのは残念ですね。


ははさん、こんにちは。
あ〜、小樽に来られていたんですね。
永倉新八の記事、ちょっと遅かったですね。ごめんなさい。
量徳寺にも行かれたのに。
しかも、量徳幼稚園の卒園生でしたか。
ほんと、何だか申し訳ないですm(_ _)m


T75さん、こんにちは。
新撰組大ファンでしたか!
とすれば、ちょっと物足りない記事だったのでは(^-^;
私は詳しくはないのですが、小樽ゆかりの新撰組剣士となれば、少しは知っておいた方がいいと思い、記事にしました。
「龍徳寺」の件、了解です。セブンイレブンはやはり変わっていたのですね。
16日帰京ですか。小樽まつりは楽しめますね。


EKOさん、こんにちは。
そうでしたか。量徳寺は菩提寺でしたか。
資料館は建物に入ってすぐ右でした。
資料館といってもほんと一室にある、資料室といった感じです。
私も受付で訪ねたのですが、とても穏やかに教えてくれました(*^-^)

投稿: 小梅太郎 | 2014年7月14日 (月) 12時32分

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