手宮:浄応寺の坂《後編》
前回に続いて「手宮編」、「浄応寺(じょうおうじ)の坂」についてです。
坂の途中には、坂の名前の由来にもなっている「浄応寺」があります。
堂々とした門ですよね。
このお寺には前回にもちょっと触れた逸話があります。
さてさて、ということで、ここからは小樽市のホームページ内 広報おたる連載「おたる坂まち散歩」を参考にさせて頂きます。
まず、この本堂についてですが、初代が明治42年(1909年)に大火で焼失した後、大正11年(1922年)に建てられたそうです。
それにしても、こんな立派なお寺がこんな所にあったのですね。
すいません、知りませんでした。
さて、その残された逸話ですが、
『大正13年12月27日。昼下がりの手宮駅構内で突然、大音響とともに爆発が発生。その振動は札幌の地震計にも記録され、爆発音は利尻島にまで届きました。この爆発は、幌内炭鉱で使用する600余箱、約10トン半の火薬類を貨車に積み替える作業中に起きた事故でした。この爆発による死者は64人、行方不明者は30人もの多数に上りました。
急きょ、浄応寺の境内には、むしろが敷かれ、遺体を安置して検死作業が行われました。浄応寺の建物にも爆風により大きな被害が出ましたが、判別も難しい遺体が境内に並ぶ悲惨なありさまを目の当たりにした住職 島彰(しまあきら)氏は深く心を痛めました。事故の一周年に、住職が関係者とともに犠牲者の慰霊と事故の戒(いまし)めにと建てたのがこの慰霊碑です。』
(小樽市のホームページ内 広報おたる連載「おたる坂まち散歩」より引用)
とのことで、その慰霊碑は門のかたわらに、ひっそりとあるそうです。
(今回写真は撮り忘れました)
それにしても、こんな痛ましい大事故があったのですね。知りませんでした。
さて、浄応寺を過ぎて坂を上っていくと、もう1つ何やら門があります。
中への道はチェーンで塞がれているのですが、門をよく見ると、
「石山中学校」
平成14年(2002年)に閉校した、旧石山中学校跡です。
実は、ユニークな円形校舎で知られるそうですが、知りませんでした〜
坂を上り切った所にも入口がありました。
敷地内に入れたのかな? 入れたのなら、見たかったですね。
ただ、卒業生の方々にとっては、閉校は寂しかったでしょうね。
その校舎は昭和32年(1957年)に建てられたものだそうですが、ちなみに、この石山中学校も昭和31年(1956年)の春に大火事にあっているそうです。
その時は、すぐ下の浄応寺の本堂を懸命に守り、手宮への延焼を防いだそうです。
昔は大火がよく起こっていたのですね。
ということで、長くなりましたが、これで「浄応寺の坂」の話は終わりです。
「手宮:浄応寺の坂《前編》」はこちらをどうぞ。
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コメント
こんばんは。
手宮駅でそんな大事故があったなんて、まったく知りませんでした。
石山中学校、名前は知っていましたが手宮にあったんですね。
アプローチが素敵ですね。廃校になってしまったんですか。
私の中学も廃校になってしまったんです。小樽の中学はどれだけ残ったんでしょうね。
投稿: はは | 2011年9月25日 (日) 22時00分
ははさん、こんばんは。
私もこれを目にするまで、まったく知りませんでした。
知らない歴史がまだまだ色々あるようです。
石山中学校ですが、私も校舎のことは知りませんでした。
ははさんの中学も廃校になってるんですか!?
何校くらい廃校になってるんでしょうね。
今度調べてみますかね。
投稿: 小梅太郎 | 2011年9月26日 (月) 01時44分